ポスト・フクシマの社会と言論

震災・原発危機以後の日本を歴史的な縦軸に位置付けて考えるサイトです。

My Photo
Name:
Location: Edinburgh, Scotland, United Kingdom

See About Me and Academia page.

Saturday, August 06, 2011

2061年 孫の世代に何を伝えるか

50年後のあなたを想像してみてください。
2061年。 

今二十代なら、あなたは70を超え、
今三十代なら、あなたは80を超えています。

両親は遺影となり、
もう孫のいる人もいるでしょう。
その孫たちにどんな社会を残し、何を伝えていくのか。

震災とエネルギーの問題はまさに世代間で語り継がれる出来事なのです。


僕は、自分が80歳になって現役から遠に退いたころまでに、、、

消費者として電力会社を選ぶことができ、
再生可能エネルギーの技術開発と競争力を誇れる、
福島の教訓から日本は多くを学んだと世界が認め、
原子力発電の「必要性」が過去の産物となり、
国民生活の「豊かさ」を「経済成長」から切り離して考えることが出来る、
そして地震の再発は怖くても、放射能災害を恐れることなく、
孫を自由に遊ばせることの出来る、
そんな社会に暮らしていたらいいなー、と思います。
その時には戦前はもちろん、戦後の高度成長も「失われた20年」も歴史の一ページです。そして震災と原子力災害から半世紀、50周年になっています。

その頃には、孫に自慢話の一つでも出来るようになりたいものです。

おじいちゃんはね、2011年、震災が起こったときはまだ駆け出しの若者だったんだよ。けどね、地震と原発の事故を目の当たりにしておじいちゃんもおじいちゃんの友達も、沢山の人が「これはなんとかしなくちゃ」って思ったんだ。だからね、あの時おじいちゃんたちは手探りで色々なことをやっていったんだよ。決して知らないふりをすることはしなかったんだ。色々な問題について話すようになったし、少しでも行動をしなきゃって思うようになっていったんだね。このおうちにも、友達のおうちにもソーラーパネルがついてるね。あれはね、昔は珍しかったんだよ。おじいちゃんたちの世代の科学者が技術を発展させていったんだ。そういう開発が必要だ、そうやって声をあげていったのはおじいちゃん達なんだよ。(尊大で自慢気な微笑み!)

次の世代に何を残し、何を伝えるのか。
震災復興とエネルギー問題は、共同体の記憶の問題なのです。
歴史研究者はCollective memoryという風にこのことを議論しますが、この共同体の記憶は、政治家が決めるものでもないし、専門家がどんな教科書を書くか、という問題だけでもありません。僕らが50年後にどんな社会に住んでいたいのか、そこでどんなことを語り継いでいきたいのか、そういった問題です。そのことを強調したくて、こんな妄想のようなことを書いてみました。

エネルギー問題を「国策」と呼んで、民主的プロセスを経ずに決めれば良いのだとする方もおられるようです。そう言った方には40年、60年の単位で将来を想像してみて頂きたい。そこで自分や自分の子供たちに何を残したいのか、そういうことを考えて頂きたいです。

2061年。あなたは、その社会に何を残し、何を伝えたいですか?

Tuesday, July 19, 2011

緊急会議 高橋美加子×小林武史

高橋美加子さん(南相馬市在住) の言葉は厳しい。どう受け取るかは僕達次第。 小林武史さん主催のエコレゾからです。
ある方が「必要なのは"脱・原発"じゃなくて"脱・受け身"だ」って言ってましたよね。ほんとにそう。みんな受け身でいることに慣れちゃってるんですよね。コマーシャリズムが席巻する世の中で、自分が望まなくてもいろんなものが目の前に並べられて、それをただ選ぶという生活しかしてこなかった。自分が住むところにしたって「どんな家に住みたいか?」を考えるんじゃなくて展示場に行って選んで買うだけ。ちゃんとした人が設計してくれたんだから問題ないよね?って。原発もそうですよ。パターンはみんな同じ。
日本人ってね、みんなどこかで自主規制をしてるんだと思うんですよ。自分の生の感情を抑えるようななにかがある。でもね、いまはそれを全部取っ払っていいときだと思うんです。それだけのことが起きてるんだから。みんな肩書きとか立場とかあって、それに合わせた生き方を必死でしてるんでしょうけど、本当はただの生き物でしょう?... 今の私はただただ悲しいって言葉がいちばんぴったりきます。世の中っていうものは、こんなことでしか成り立たなくなっていたのかって。その悲しさっていうのを抱えたまま生きていかなきゃなっていう思いです。本当に生きていくのが悲しいもん。悲しいからここ(南相馬)で生きていくんです。そういう心境。 

Labels:

Saturday, July 16, 2011

メディア、行政、そして有権者は九電の「やらせ」から何を学ぶのか。

 『九電 やらせ 例文配布 報告書公表』

玄海原発(佐賀県玄海町)の県民説明番組をめぐる九州電力の「やらせメール」問題で、同社佐賀支店(現佐賀支社)が発電再開への賛成意見投稿を呼 び掛けた際、「電力不足で熱中症の犠牲になるのは子供」「最悪の場合は停電が懸念される」などと投稿意見の詳細な例文を取引会社などに配布していたことが 十四日、九電が公表した調査報告書で分かった。 
やらせ要請を受けたのは三千人近くに上り、百四十一人が意見投稿した。
言論統制の厳しい諸国であれば、こうした事実はすぐに明るみには出なかったと思います。九州電力も検証を行い情報を公開している向きもありますし、日本はまだまし、と言えるのかも知れません。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまう、という落とし穴には気をつけたいものです。

まず、引責辞任すれば丸くおさまるのか、という問題があります。果たしてトップを替えて不祥事再発防止の社内努力をする、という旧来の方法(business as usual)を繰り返せばよいのでしょうか?この問題には九州電力も気づいているようで、社外の有識者を委員長とする「アドバイザリーボード」を設置して、「不公正な行動をとるに至った原因分析、及び再発防止策の深掘りを行い、最終的な報告を取り纏める」とあります。実際の人選はまだのようですし、早急な実施と情報公開を望みます。また「社外有識者主導の再発防止策に努めます」というスローガンが形骸化しないよう鋭く監視する必要がありそうです。

しかしこれまで通りの自助努力を見守るだけで十分なのでしょうか。「安全神話が崩壊した」とさえ言われ、「原子力ムラ」の存在が人口に膾炙し、国民が原子力発電所の処遇を見守る、そんな時に起きた世論操作だからです。情状の余地が余りに少ない気がします。もし自助努力だけではもう不十分であるならば、それはどういうことなのでしょうか。それは、エネルギー政策におけるcheck&balanceを根底から見直すということだろうと思います。これまで「安心」「安全」「信頼」を担保したかのようにみえた行政と専門家そして電力会社にエネルギー問題を一任すればよいという時代は終わった、ということです。

政府や電力業界は信頼できないので一人一人が判断をしていかなければならない、ということもよく言われます。しかし政府が電力事業者がなくなることはないので、「あいつら逝ってよし」という態度に陥らずに、どうやって政府や電力業界、そして原子力の専門家の方々に社会的責任を全うしてもらうかを考えるべきでしょう。メディアと市民団体、そして投票行動を駆使して有権者が果たすべき役割を見つけていく必要がありそうです。

どのポイントも新しいことではありません。しかし、こうした議論を「積み重ね」「浸透させる」そういう機会がもっともっと必要なのだと思います。そうでなければ、有意義なことが色々言われてきたけれども結局は議論を出し尽くさず、またそれを具現化出来ずに雲散霧消、なんてことになります。

新聞、雑誌などの大手メディアに携わる方々には、特に「安全神話」崩壊後のcheck and balanceのあり方についての質の高い特集記事を期待したいです。歴史的に見ても、企業や営利活動に社会的責任を求めるような考えはヨーロッパではとても根が深いのですが、法的制度だけでなく、世論とメディアの批判的吟味がつねにそこにはありました。それは、制度的改チェックには限界があり、つねに抜け穴があったからです。例えば産業化の土台が整いつつあった18世紀イギリスでは、新聞や雑誌での批判や政府への直訴、コーヒーハウスでの熱心な議論があったからこそ、起業家達が自身の行動の社会性を常に説明し正当化せざるを得ないような商業文化が成立していきました。そんな歴史の縦軸からみても、原子力安全保安院の経産省からの分離などの組織論はもちろん、大手メディアとTwitterなどのnetwork型mediaが果たすべき役割なども視野に入れるような特集などはとても有意義だと思います。原発推進vs反原発という議論の極端な二極化を避けつつ、読者に豊かな視点を提供し、政府や関連団体が社会的責任を全うするよう促していく。メディアが果たせる役割がそこにあるのではないでしょうか。

原子力行政に携わる皆様には、政策、専門家側から見た問題の捉え方がどういうものなのかをもっと積極的に伝えて頂けると嬉しいです。現時点の所謂「世論」では「あいつらは利権にしがみついている」ぐらいの紋切り型が主流であるとすら言えそうです。こうした見方が誤解であるということを有権者に分かる仕方で理路整然と示すことが、原子力行政を支えてきた専門家や政策担当者の社会的責任の最たるものであるはずです。エネルギー政策は、発電所の近隣自治体に住む人達だけでなく、多くの有権者が固唾を飲んで見守る大問題になりました。組織のウェブサイトでの情報公開、経済産業大臣への公式報告、特定自治体への「説明会」という旧来の行動範囲を超えて、市民に語りかけて頂きたい。例えば真部電社長や、斑目氏、勝俣東電会長など要職につく方には新聞や雑誌などで1−2ページくらいの有権者にむけた原発再稼働へのアピールや原子力行政についての持論を展開するなどして建設的議論に貢献して頂きたいものです。

最後に、原子力とも行政とも、メディアとも関わりの無い一市民にも、ポストフクシマの日本を巡って果たすべき役割があるはずです。意見をもたない、立場を表明しない、ということは現状追認となってしまうのではないか。 それは巻き込まれた火事場で目をつぶって座りこんでしまうのと何が違うか。それは現実逃避にはなっても、おそらく状況を改善することにはならないのではないか。もちろん日々の生活に戻ることは大切です。僕らがそれぞれの職業に専心することは、確かに経済の活性化につながるでしょう。しかし、それだけでは不十分ではないでしょうか。電力を享受してきた有権者としての自分たちのあり方を、勉強不足や間違いや批判を恐れて発言をしない「お上まかせ」の行動パターンそれ自体を、問い直していく必要がありそうです。

九州電力の「やらせ」事件が引責辞任によって過ぎ去ってしまうこと無く、建設的な議論の一部として語られていくことを望みます。

Labels:

Sunday, July 03, 2011

「思惑」と「権益」の暴露  その一歩先へ。

震災復興と原発危機以後のエネルギー政策に介入する人々には隠された「思惑」があるのではないか。そういった「裏」を暴こうという風潮があるようだ。ポスト・フクシマの社会と言論を考える手がかりとして、まず復興とエネルギー政策における自己利益のあり方についてのメディアの対応を検討してみたい。

先日チャリティーイベントも兼ねて来日したLady Gagaと彼女の寄付活動について、毎日新聞では編集委員の川崎氏がガガの「真意」のありかを探って次のように記している。
ガガは、3月11日、「祈るだけではダメ。『祈りをささげよう』と書いたリストバンドを作ってお金を集めよう」と、すぐに行動し2日間で25万ドルを集め た。それは今、150万ドル(約1億2000万円)を超えたという。本人も「同額を寄付した」と発表した。来日会見で「なぜ、日本のためにそこまで」とい う質問には「ホワイ・ナット?(当然でしょ)」とかわし、その真意は定かではない。
結局はガガがやっているのは、慈善という名を借りた売名行為なのではないか。読者がその様な印象を受けても不思議ではない。

似たような論調は他にもある。例えば町田徹氏は「現代ビジネス」において、ソフトバンク孫社長が打ち出した「電田構想」は脱原発の福音か、 それとも補助金狙いの新規事業かとの問題提起を行った。町田氏の論旨はエネルギー専門家の意見も踏まえた慎重なものだ。僕が今問題としたいのは、一見エネルギー政策の将来に解決策を与える「福音」とも見える孫氏のエネルギー産業参入には隠された「思惑」があるという氏の視点である。孫氏の「光の道構想」と「電田構想」を比較しつつは町田氏は次のように指摘する。
孫社長はいずれの場合も、大きなトレンドをうまく捉えて、受け入れやすい正論を主張しながら、肝心のところで根拠の乏しい試算を持ち出して、自社への政策支援を取り付けようとしているのである。
「 またか」という印象をうける方はどれくらいいるだろうか。社会貢献になるようなことを謳っておいて、結局は自社の利益の追求か、と。

レイディガガ、孫社長の両方のケースに共通するのは、「社会貢献」に根ざした行動は誠心誠意であるべき、つまり他の思惑があってはならない、という暗黙の了解だ。著名人の寄付活動を「売名行為」として批判する者も多い日本では決して珍しくない見方かもしれない。しかし資本主義の歴史に遡って考えるのならば、こうした視点はあまり建設的でないように感じられる。というのは、遅くともシェークスピアが生きてきた16世紀後半までには、社会貢献を声高に叫ぶことが起業家達の常套手段になっていたからだ。どの様に社会問題を転じてビジネスチャンスとするか。またビジネスを社会への貢献として売り込むにはどうすればよいか。これが、世界初の産業革命を成し遂げたとされる、イギリス資本主義を支えた「作法」だったのだ。

例えばインフレが続き小麦の値段が3倍にも跳ね上がった16世紀末イギリス。そこでは、貴族から貧しいプロテスタント移民までもが、新たな産業を興し貧民に仕事を与え、そして国庫を潤すとともに、対外貿易を有利に進める、そんな「社会貢献」を旗印にした事業の数々に奔走した。フクシマ以後の日本でも未曾有の状況下でありながら、似たような言論が繰り返されていると言えるのかもしれない。ガガは寄付活動とともに音楽とコンサートチケットを売りさばき、孫氏は再生可能エネルギー研究に寄付をしながらも、事業参入することで自社利益を追求する。自己利益にかなった社会貢献。社会貢献をかねた利益の追求。クロ、シロとも言いがたく、最悪の偽善や欺瞞にも陥りうる綱渡り。何世代もヨーロッパで続いてきたこの緊張が、ポスト産業社会の日本でも繰り返されている。

自らを省みずに行動する勇気と意志はもちろん賞賛されるべきだ。しかし「自分が出来る範囲でならば何かしたいけれど、家庭、会社の利益を犠牲にするとなると、ちょっと。。」という社会貢献予備軍の身動きを取りにくくしてしてはならない。もしそうだとすれば、僕達に必要な視点は、社会貢献に潜む「思惑」を暴くことではない。それは社会の為に自己犠牲を強いる風潮を助長するだろう。

つまり、僕らはガガや孫氏の「思惑」を知って満足するべきではない。自己利益への配慮があって当然なのだ。大手メディアに携わる人々は、むしろ自分の利益と社会の利益を巧みに結びつけたガガや孫氏の「発想」や「起業家精神」をまずは評価するべきではないか。そして一定程度評価しつつも、彼らの行動が社会的害悪に堕落してしまわないか「監視する」ことが大切だろう。孫氏の例で言うならば、彼の電田構想が他社の太陽光発電事業への参入を妨害するようなことがないか、そうした動向は批判的に吟味されるべきだろうし、メディアが蓄積する人脈や知識をそうした時に役に立てるべきだ。

震災復興とエネルギー政策の長期的転換には莫大な人力と財力が不可欠だ。そんな時に、危機をビジネスチャンスに変えていく気概と想像力を押さえこむような風潮を作ってはならない。犠牲を省みずに身を投じた人には惜しみなき賞賛と社会的評価を与え、同時に一人でも多く人が自己利益・自社利益に叶う形で社会貢献を模索すればよいのだ。そして立法・行政はもちろん、大手メディア、そして、フェイスブック・ツイッター時代を生きる僕らが、彼らの行動が言論と乖離しないよう、暖かくも厳しく見守れば良いのだ。

(試論)

Labels:

はじめます。

このブログでは、ポスト・フクシマの日本とその言論状況について観察、分析、提案を一歴史学者の視点から行ってみたいと思います。

現代史に残る福島での大事故を目の当たりした日本人研究者として、やはり感ずることは書き残しておきたい。こうした焦りにも似た気持ちが3月以降ますます強まって来ていました。目的や手法は書いていく中で変わっていくでしょう。しかし、人文科学に携わる一研究者としての社会的責任とはなんなのか、これを若輩ながらも追究したい考えです。このブログがその為の一つのチャネルになることを願います。また、これをきっかけに大学という垣根の内外で多くの方々と一緒にポスト・フクシマの日本を考えて行きたいと思っています。どうぞお付き合いお願いします。

山本浩司