ポスト・フクシマの社会と言論

震災・原発危機以後の日本を歴史的な縦軸に位置付けて考えるサイトです。

My Photo
Name:
Location: Edinburgh, Scotland, United Kingdom

See About Me and Academia page.

Sunday, July 03, 2011

「思惑」と「権益」の暴露  その一歩先へ。

震災復興と原発危機以後のエネルギー政策に介入する人々には隠された「思惑」があるのではないか。そういった「裏」を暴こうという風潮があるようだ。ポスト・フクシマの社会と言論を考える手がかりとして、まず復興とエネルギー政策における自己利益のあり方についてのメディアの対応を検討してみたい。

先日チャリティーイベントも兼ねて来日したLady Gagaと彼女の寄付活動について、毎日新聞では編集委員の川崎氏がガガの「真意」のありかを探って次のように記している。
ガガは、3月11日、「祈るだけではダメ。『祈りをささげよう』と書いたリストバンドを作ってお金を集めよう」と、すぐに行動し2日間で25万ドルを集め た。それは今、150万ドル(約1億2000万円)を超えたという。本人も「同額を寄付した」と発表した。来日会見で「なぜ、日本のためにそこまで」とい う質問には「ホワイ・ナット?(当然でしょ)」とかわし、その真意は定かではない。
結局はガガがやっているのは、慈善という名を借りた売名行為なのではないか。読者がその様な印象を受けても不思議ではない。

似たような論調は他にもある。例えば町田徹氏は「現代ビジネス」において、ソフトバンク孫社長が打ち出した「電田構想」は脱原発の福音か、 それとも補助金狙いの新規事業かとの問題提起を行った。町田氏の論旨はエネルギー専門家の意見も踏まえた慎重なものだ。僕が今問題としたいのは、一見エネルギー政策の将来に解決策を与える「福音」とも見える孫氏のエネルギー産業参入には隠された「思惑」があるという氏の視点である。孫氏の「光の道構想」と「電田構想」を比較しつつは町田氏は次のように指摘する。
孫社長はいずれの場合も、大きなトレンドをうまく捉えて、受け入れやすい正論を主張しながら、肝心のところで根拠の乏しい試算を持ち出して、自社への政策支援を取り付けようとしているのである。
「 またか」という印象をうける方はどれくらいいるだろうか。社会貢献になるようなことを謳っておいて、結局は自社の利益の追求か、と。

レイディガガ、孫社長の両方のケースに共通するのは、「社会貢献」に根ざした行動は誠心誠意であるべき、つまり他の思惑があってはならない、という暗黙の了解だ。著名人の寄付活動を「売名行為」として批判する者も多い日本では決して珍しくない見方かもしれない。しかし資本主義の歴史に遡って考えるのならば、こうした視点はあまり建設的でないように感じられる。というのは、遅くともシェークスピアが生きてきた16世紀後半までには、社会貢献を声高に叫ぶことが起業家達の常套手段になっていたからだ。どの様に社会問題を転じてビジネスチャンスとするか。またビジネスを社会への貢献として売り込むにはどうすればよいか。これが、世界初の産業革命を成し遂げたとされる、イギリス資本主義を支えた「作法」だったのだ。

例えばインフレが続き小麦の値段が3倍にも跳ね上がった16世紀末イギリス。そこでは、貴族から貧しいプロテスタント移民までもが、新たな産業を興し貧民に仕事を与え、そして国庫を潤すとともに、対外貿易を有利に進める、そんな「社会貢献」を旗印にした事業の数々に奔走した。フクシマ以後の日本でも未曾有の状況下でありながら、似たような言論が繰り返されていると言えるのかもしれない。ガガは寄付活動とともに音楽とコンサートチケットを売りさばき、孫氏は再生可能エネルギー研究に寄付をしながらも、事業参入することで自社利益を追求する。自己利益にかなった社会貢献。社会貢献をかねた利益の追求。クロ、シロとも言いがたく、最悪の偽善や欺瞞にも陥りうる綱渡り。何世代もヨーロッパで続いてきたこの緊張が、ポスト産業社会の日本でも繰り返されている。

自らを省みずに行動する勇気と意志はもちろん賞賛されるべきだ。しかし「自分が出来る範囲でならば何かしたいけれど、家庭、会社の利益を犠牲にするとなると、ちょっと。。」という社会貢献予備軍の身動きを取りにくくしてしてはならない。もしそうだとすれば、僕達に必要な視点は、社会貢献に潜む「思惑」を暴くことではない。それは社会の為に自己犠牲を強いる風潮を助長するだろう。

つまり、僕らはガガや孫氏の「思惑」を知って満足するべきではない。自己利益への配慮があって当然なのだ。大手メディアに携わる人々は、むしろ自分の利益と社会の利益を巧みに結びつけたガガや孫氏の「発想」や「起業家精神」をまずは評価するべきではないか。そして一定程度評価しつつも、彼らの行動が社会的害悪に堕落してしまわないか「監視する」ことが大切だろう。孫氏の例で言うならば、彼の電田構想が他社の太陽光発電事業への参入を妨害するようなことがないか、そうした動向は批判的に吟味されるべきだろうし、メディアが蓄積する人脈や知識をそうした時に役に立てるべきだ。

震災復興とエネルギー政策の長期的転換には莫大な人力と財力が不可欠だ。そんな時に、危機をビジネスチャンスに変えていく気概と想像力を押さえこむような風潮を作ってはならない。犠牲を省みずに身を投じた人には惜しみなき賞賛と社会的評価を与え、同時に一人でも多く人が自己利益・自社利益に叶う形で社会貢献を模索すればよいのだ。そして立法・行政はもちろん、大手メディア、そして、フェイスブック・ツイッター時代を生きる僕らが、彼らの行動が言論と乖離しないよう、暖かくも厳しく見守れば良いのだ。

(試論)

Labels: